まさに、青天の霹靂である。
社長という役職から「降格」して違う役職に収まるのでは?とも思っていたのだが、出向元である東京ガスをも退職するという。社長を辞したあとにどうされるのかはわからないが、本当に「FC東京」から去ってしまわれるのかもしれない。
ほかのクラブの状況は知らないが、FC東京というクラブの顔は、創立以来、村林さんだった。「社長」になったのは08年からだが、彼がいなければ、東京ガスのサッカー部は「FC東京」にはならなかっただろう。いってみれば、親みたいなものである。
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企業のトップでありながら、村林さんは現場とサポーターと地元を大事にした人だ。ペーニャの飲み会にも気さくに顔を出し、地域のスポーツイベントで汗を流し、アウェイはもちろん、ユースの試合も観戦し、サポーターの声に応じて「シャー!」をしては場を沸かせた。いったいいつ休んでいるんだろう?というくらい、24時間FC東京の人だった。
「社長」というよりも「ムラバー」という呼び方のほうがしっくりくる人のほうが多いだろう。たとえ降格しても、東京サポがバスを囲んだり、スタジアムに居残って社長を呼び出したりしなかったのは、村林さんだったからだ。
一方で、村林さんは非常にワンマンな社長さんでもあった。社長だからあたりまえなのだろうが、決済権をもつというよりは「自分のアイデアを自分で決済している」という感じ。それは、スポンサー営業はもちろんのこと、チーム編成に後援会制度(クラブサポートメンバー)、マスコットの扱いからグッズの選定まで多岐にわたりすぎていて、いったん思い込んだらなかなか融通がきかないという一面ももっていた。
年に数回、ファンクラブ通信やクラブからのお知らせで読むはめになる社長の文章には、独特の「村林節」が炸裂していた。時には、過剰すぎる「村林節」に辟易したりしながらも、そのたびに「FC東京=村林裕」ということを再認識させられていたものだ。
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2008年からは、それまでの専務から社長になって、名実ともにFC東京のトップに。みずからが「切り札」と呼んだ城福浩さんを監督に迎え、「真の優勝争い」ができるクラブに成長させようとしていた。
が、城福監督のもとではナビスコカップを一度獲得しただけ。観客数もそれほど伸びず、2010年にはついに降格。報道によれば、城福監督を切ったころから退任を考えていたという。満を持して社長となり、切り札の監督を据えてのこの結果には、忸怩たる思いがあるだろう。
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このブログでは社長に対して批判的な文言を書いたこともあったが、「村林、ヤメロ」と思ったことは一度もない。クラブのすべてを自分で切り盛りしようとするのはやめて、他人にまかせられるところはまかせて、GMなどの役職をおいて、もっと社長らしく鷹揚に構えてもらいたいとは思っていたのは確かだけど。
近年のFC東京がいろいろな面で行き詰まっていたこともまた事実だった。自分がSOCIOになってから9年たって、J1にこそ定着していたが、観客数はたいして伸びず、成績も一進一退で「強豪」の一角にすら食い込めない。各年代の代表選手が増え、ユース年代もそれなりにいい成績を残してはいたが、トップチームは明らかに殻を破れないでいた。
観客数が増えず成績が残せなくてもクラブは明らかに成長はしていて、それに見合う体制ができていないのではないかと思いつづけて数年。今年、最後の最後に降格することで、その感を新たにすることになった。そして、このタイミングでの「村林社長の退任」。
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「FC東京」となってから、早くも10年以上が経過した。そろそろ村林さんという、何でもやってくれる温かくて大きな親の手を離れて、ひとりだちしなければならない時期に来ているのだ。それはより困難な道かもしれないが、成長するためにはこうするしかない。今まで東京のために猛進してきた村林さんには心から感謝を。そして、できればこれからもずっとクラブを見守っていてもらいたい。
週末からは「天皇杯ウィーク」となる。ぜひとも勝って、村林社長に「シャー」をやってもらいましょう。願わくば、それが来年の元日になることを……。
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